現代における自己と職業人生との不調和

若者雇用を取り巻く現状と問題

高卒者の2人に1人、大卒者の3人に1人が非正規雇用(※1)

平成24年3月に内閣府から発表された資料に掲載された上記のサマリはショッキングなニュースとしてマスコミにも大きく取り上げられました。

この数字は厳密に言えば、入社後3年以内に退社ないし転職をした人が、その後全て求職者や非正規雇用となったと仮定しての数値なので、実態とは差異があると思いますが、目下の厳しい雇用情勢では思い通りの再就職は困難と想像されるので、冒頭の数値も決して大げさでは無いでしょう。

必ずしも全ての方がそうだとは思いませんが、不本意に非正規雇用に就いている方は、自己と職業人生が不調和な状況と言えるでしょう。

その一方で、新社会人となる学生の大企業志向が強く、中小企業の求人倍率では3.2倍であるにも関わらず大手企業では0.6倍(※2)と、その差は年々減少しているものの、いわゆる「雇用のミスマッチ」として指摘され続けています。

翻って、正規雇用と言うポジションにあっても、自己と職業人生との不調和に苦しむ方もいます。
実際に、私自身の周囲や勤務先で彼らからこのような言葉が少なからず聞かれました。

「今の仕事は心からやりたいことでは無いが、食い扶持を得るためにはある程度の妥協は致し方無い」

「挑戦してみたいことはあるが、ここから飛び出すリスクは取れない」

こうしてみると、正規雇用・非正規雇用に関わらず、少なくない方々が職業人生との不調和な状態にあることが伺えます。それは職業人生において居場所と出番が感じにくい状況と言えるでしょう。

では、何故このような状況に陥っているのでしょう?

足りない打ち手

政府や行政も特に若者の雇用問題については以前から大きな関心を持っており、内閣府に「若者雇用対策会議」を設置するなどの対策を行い、いくつかのモデル事業も実施し、改善が見られる部分もあります。

しかしながら、上述の若者雇用対策会議の資料に盛り込まれている対策を見ていると、

「一手足りない」

と感じるのです。

それはその資料の中で使われている次の表現に現れていると考えます。

“学校から職場に円滑に接続できていない”

つまり、「職場」と言う出口に対する入り口は「学校」であり、両者の接続の為「キャリア教育」推進を掲げているのです。

しかし、キャリア教育の必要性は理解出来ますが、「学校」と「職場」は「キャリア教育」だけで繋がるのでしょうか?

私は「学校」と「キャリア教育」の間にもう一手必要だと考えます。
では、「足りない」もう一手は何なのか?それを考える前に私がこれまで出会った方々を振り返ってみたいと思います。

人の生き方を規定する態度

私はこれまで会社員生活にプロボノ(※3)等の所謂「サードプレイス(※4)」の活動と、NPO主宰後の被災地での復興支援活動で、会社勤めをしているだけではなかなか会うことの出来ない数多くのプロボノの方、社会起業家、利他的な行動原理を持つ方とお会いして来ました。

また、一昨年(2012)の秋に訪れたアジア各国では、単身異国に乗り込み不可逆的なグローバル化のうねりに流されること無く、「ワーク・シフト」(※5)に描かれるような、新しいキャリアを自ら切り拓いている多くの若い方も目の当たりにして来ました。

彼らは、冒頭に述べた「不調和」な状態にある方とはある一点において決定的な違いがあります。

それは「主体性」です。

彼らは自身の強くもしなやかな社会観、人生観、道徳観を土台に、社会と職業人生に対して、依存や逃避をすること無く、そして自分以外の誰かに責任を転嫁すること無く、主体的に向き合っています。

彼らの多くは、収入や生活環境などは所謂「大手企業」の社員のそれには及ばないケースも多いですが、職業人生への充実感や自己肯定感では引けをとらないどころか、大きく上回っている様に見えます。

つまり、正規・非正規の雇用形態や勤務先ではなく、社会と職業人生に主体的な態度で向き合っているか否かが、調和のとれた職業人生、日々の充実感、ひいてはクオリティ・オブ・ライフを規定しており、極論すれば社会や職業人生に対する振る舞いはこの何れかであり、両者の間には越えられない溝によって決定的に分断されており、それぞれの目には世界が全く異なって映っていると言っても過言ではないとすら思います。

では、この「主体性」はどこから産まれるのでしょうか?

社会と職業人生に主体的に関わる「動機」

私は「動機」だと思います。 つまり、”何故”社会に関わるのか、”何故”働くのか、という問に対する自分なりの力強い答えです。
動機なくして主体的に思考し行動することは出来ません。

例えば、「空腹を満たしたい」と言う「動機」が無ければ、「今日のお昼、何が食べたい?」と訪ねても、「まだお腹すいてないんだよね」と言う返事しか返ってこないでしょう。 もしくは、お腹も空いていないにもかかわらず「12時だからランチに行こう」とする場合もあるかもしれません。しかしこれは思考停止状態の行動とも言えます。

これは社会と職業人生においても同様です。
「~だからこそ、私は社会の一員となるのだ」「~だからこそ、◯◯な職業人生を送りたい」。

このような動機が醸成されないまま、”やりたい仕事”を考えても、もしくは誰かに「考えろ」と言われても、やはり、主体的にその可能性を拡張していくことが出来ず、テーブルの上に差し出されたメニューのからランチを選ぶように、自身の僅かな人生経験で見聞きした範囲もしくは近親者が薦める中から、消去法的ないし消極的に選択することとなる。もっとひどい場合はお腹も空いていないのに、友達に誘われるままに何となくランチに向かう。

その結果、限られた職種、企業に応募が集中し、その狭き門をくぐれなかった人は、正規・非正規問わず「働かせて(≒給料の)もらえるところ」をやはり消極的に選択する。 何とかくぐり抜けた人も、その選択が主体的で無ければ、数年後に不調和を感じて苦しんだり、あるいは目の前の仕事を批判的に見つめること無くがむしゃらにこなし続けて、会社人生(「職業人生」ではなく)を終えた途端自身の社会的意義(居場所と出番)を見失い、極端なケースでは自ら死を選択するに至る。

彼らは「動機」が醸成されなかったが為に、主体的に社会と職業人生に関わることが出来ず、不調和に苛まれたり、社会的意義を見出せなくなってしまったのではないでしょうか。 上に述べたことは、今更私が取り立てて書く必要も無いほどニュースや書籍等で喧伝され、多くの方が認識されているでしょう。 これが、「動機」の醸成なくして、主体的に社会と職業人生、つまりキャリアに向き合うこと、キャリア教育が成果を結ぶことは困難だと考える理由です。
そして、この「動機」の醸成こそが、前述の内閣府の資料で感じた「足りない」もう一手なのです。

「動機ある若者」を地域とともに育む

現在内閣府、及び行政機関で行われている施策について、この考えに近い事業もありますが、その規模や浸透度(及び社会の理解度)は充分と言えず、結果的に多くの人が動機を十分に醸成できない、つまり空腹感を感じないまま「キャリア教育」を受け、「さあ、どれを選ぶ?」と聞かれている状態にも見えるのです。

では、そもそもその「動機」とはどのように醸成なされるものなのでしょうか?

戦後の高度経済成長期と共に核家族化が進むまでは、子育ては地域社会と言う単位で行われていました。

地域の祭事や行事への参加、収穫作業の手伝いなどを通じ「大人との経験の交換」や「多様な他者との交流」によって「他者の取り込み」(※6)をし、社会と主体的に関係を切り結ぶことの意味と動機を醸成し、後に社会の成員(=オトナ)として必要な資質である「社会力」の必要性を認識し、身につけ言い換えれば「社会力」が一定程度身につかないと、そもそも社会に関わる「動機」が醸成されない。

その過程で味わう「成功体験」や「自己肯定感」が、社会参加(=社会の成員となること)、労働参加への「動機」を醸成していたのではないでしょうか。

例えば農作業を手伝うことで、食卓に食べ物が並ぶことに関わることの出来た自負心が芽生えると同時に、作物の育成や収穫をしない限りその先には飢えが待っていると知り、消防団の活動に参加すれば、自分も地域の防災を担う一人なのだととの意識が芽生えると同時に、身の危険を冒しても他人の命を救おうとする意思の存在を知り、近所の年下の子どもの面倒を見てと頼まれれば、年下の子供たちからの無条件の信頼を感じると同時に、彼らの面倒を見ないと時には命にかかわることにもなり兼ねないことを知る。

幼少期におけるこうした家庭や学校以外の”大人や他者との(時に少し特別な)共通体験”を通じて、社会とは自身と他社による複雑な相互作用によって成立し決して不可分であると知り、自身の「入力」によって何かが社会に「出力」されることを知り、その入力が善意や利他に基づくものであればポジティブな、悪意と利己的な入力ならネガティブなフィードバックとなること、を喜びやほろ苦さといった身体感覚として味わう。

「動機」とはまさに、この味わいがもたらす”居場所と出番”を自ら切り拓こうとする好奇心、また社会と主体的に関係性を切り結ぶこと無く自身の居場所と出番は獲得できないのだという緊張感、が表裏一体となったものと言えるでしょう。

それは少し大げさに言うならば、否応無しに冒険に旅立つこととなった物語の主人公が、何度も傷つき失敗しながらも仲間の助けを得て目的を達成し、その冒険の帰路に目に入った故郷に目を細めながら、次なる新しい物語を夢想するような感覚に似ているかもしれません。

しかし、民間やNPOの取り組みについても、主体性を発揮している少数派の動機ある若者に対しては大学生の海外インターンシップなどのプログラムや、接続先が用意されているものの、動機そのものを醸成させることを目的としたプログラムはほぼ皆無といえます。

今や多数派である動機なき若者をこれ以上産み出さない為の働きかけこそ必要ではないでしょうか?

とは言え、現代においてかつてのような”大人や他者(社会)との少し特別な共通体験”を再現することは困難ですし、職業やコミュニケーション手段、そして価値観が多様化したこの時代ならではのやり方があるはずです。

私たちは、この「すみだ学習するマチプロジェクト」で、自分たちが暮らすこの墨田区から「動機ある若者」の育成と、その為に地域ができることはなにかの実践をはじめます。

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*この文章は、HP内の「代表あいさつ」として掲載している内容を一部改変し再掲載割いたものです