皆さま、明けましておめでとうございます。

年末年始に、アーレントの映画や本を読み返し、現在の活動を始めようと思い至った頃のことを思い出しました。
2016年の年頭にあたり、「動機ある若者を地域と共に育む」活動を続ける”動機”を、(ちょっと言葉足らず感は残っていますが)改めて言語化してみます。

 

<揺さぶられた寛容さ、そして若者の価値>
昨年は、民主主義の多様性への寛容さが試された、もしくは表面的な寛容さと本質的な不寛容との暗い境目を突かれて大きく揺さぶられる出来事が幾つも起こりました。

日本人ジャーナリストの殺害
(「革命」「解放」のツールから、)テロのツールとしてのインターネットの利用
日本国内への移民受入れの是非が問われる
フランスでのテロ

これらは、インターネットによるアラブ諸国の革命が、いよいよ民主主義(と、その基盤とも言える資本主義)の「仕上げ」に入ったと楽観的思考に浸っていた、いやそれをナイーブに信じようとすることにより精神的な安定を得ようとしていた私達を大きく揺さぶりました。
中には人間の善意や普遍的な倫理など信じられなくなってしまった方もいるかもしれません。

しかし、社会は常に新しい命によって更新されています。過去にもどんなに絶望的で修復困難に見える世界でも、若者たちは過去と非連続な予見できない新しい何か、をこの世界にもたらしてくれました。
言い換えれば、社会は「次の世代」に塗り替えられることによって新しい夜明けへの希望を生産してきのでしょう。

 

<「不断の始まり」。「活動」を自己目的的でもいいから始める>

そして、その「何か」がもたらされるのは、内発的動機が彼らを突き動かした時です。
同質化への誘惑に抗いきれず、相互に「承認」を消費しあう行為や、大衆社会へ追放され「(疎外されたままでも)楽しくやってます!」という開き直りからは決してその「何か」は産まれません。
社会には、若者たちの内発的動機を起動させる装置が組み込まれていなければならないのです。

上に挙げた様な出来事を振り返りながら、私たちの使命はその装置としての「公的領域」=「活動」の場を社会に組み込むことなのだと再確認しました。

その為に私達が用意する手法は、”ありたい姿(≒共通善)” を実現する為の「言論」と「行為」の過程を実装するバラエティ豊かな、ワークショップ・プログラムや、その為のファシリテーションです。
異質な他者との「言論」と「行為」から多様性を体感し、多様性こそが社会の進化の原動力であり、自身がその多様な主体の一部であると気づくことが、社会との接続へ「不断の始まり」を産みだす動機となると信じています。

若者の「活動」は、はじめそれ自体が目的になってしまうこともあるかもしれません。
しかし、時に上位の”ありたい姿”を振り返りながら、不断に始め続けることで必ず予見しない価値に出会うはずです。

 

<「現れ」を受け入れる「他者」としてのTHOUSAND-PORT>

そして、その異質な他者との言論と行為を豊かで実りあるものにする為には”私”を他者に開示していくことが欠かせません。
また、他者(=世界)に対して私を開くと同時に、「見たくない私」に対しても私を開いていくことも求められるかもしれません。
しかしそこにこそ動機の源泉(≒原体験)が埋もれていることが多いのもまた事実です。

その源泉まで深く踏み入るには絶対的に彼らを受け入れることのできる「他者」が必要でしょう。
私たちは、その「現れ」を受け入れる「他者」でありたい。
その「他者」を(地域)社会に産みおとす存在でありたい。

その思いが2016年も私達を突き動かしていくでしょう。

本年もよろしくお願いいたします。