不惑の年代2年目冒頭に『「里」と言う思想』著 内山節 を読んで
昨日は、また一つ歳を重ねた「区切り」に気づきを与えて貰えそうな本を選んで読みました。
”「里」と言う思想” 山内節 著 です。これはある人に以前から薦められていたもので、「グローバリズム」とは何かを逆説的に問う本との事前の理解で読み始めました。
この中からインスパイアされて新たに自覚した点と、言語化出来た点があったので、「不惑の年代2年目」の決意表明的に少し書いてみます。
我々の多くは現代の制度疲労や政策の失敗等を「近代化が”未完成”」だからだと認識してきました(少なくとも私は)。
しかし、本書では「近代的世界・価値観(ここでは特にアメリカ)」そのものが、あるべき未来として目指す原理なのか?と問うています。多くの犠牲を伴いながらも「進化のプロセス」を歩んでいると無条件に前提していた自身のナイーブさを省みることとなりました。
近代化は、「普遍化」であり、それは「交換可能な個」を製造する社会であり、その原理を逆手に取り人との「差別化」を煽るのが、昨今かしましく言われる「グローバル化」に見えます。
しかし、本来の意味でのグローバル化(≒フラット化)は、「場所(ロケーション)に制約されず働ける」事を意味するはずであり、常に巨視的に社会を見る目を持ちつつもローカルな同じ共同体に生きる人々の幸せを大切に生きる事こそが結果、(フラクタルである)世界全体の幸せに繋がる、との最近の自身のスタンスを補強してくれる本となりました。
さて、不惑の年代2年目、この3つの「心構え」を高く、そして緩く掲げて精進したいと思います。
1. 今、自らの暮らす共同体の幸せを大切にする
2. 身体性の回復
3. 「矛盾」に(多数決の「暴力」を用いず)対峙する
追伸
”素晴らしき未来を提示し、そこにむかって人々を誘導する方法を、私たちは捨てなければいけないのではなかろうか。その意味で、私は、未来を喪失させようと思う”
この本の結びに筆者はこう述べていますが、
「ナイーブ」な私は、もう少しだけその希望を持っていたいと思っています。